多様な情報を知る権利
山本龍彦(以下、山本) 今回の対談では、情報的健康(インフォメーション・ヘルス)とは何かについて議論したいと思います。これは、とても真新しい概念のように聞こえますが、私は憲法21条の表現の自由と関連していると考えています。
最高裁判所はある判例でこう述べています。憲法21条で表現の自由が保障されることで、「各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつこと」は、個人の人格形成・発展と民主主義社会の維持のために必要だから、「さまざまな」情報等に接し、これを摂取する自由は、憲法21条の「趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれる」と(最高裁大法廷判決、平成元年3月8日)。これは、「知る自由」について述べたものと理解されていますが、多様な情報・意見等を摂取する機会をもつことが、個人にとっても民主主義にとっても重要だ、と述べている点で、情報的健康の考え方と密接に関連しています。
鳥海不二夫(以下、鳥海) 私たちには多様な情報を知る権利があるということですね。そして重要な点として、何を知るべきかは他人に押し付けられるものではないということがあります。
山本 はい。憲法は13条で幸福追求権も保障しており、何が「善い生き方(good life)」なのかは個人が自ら決めるべきで、他者が価値観を押し付けてはならないと解釈されています。ですから、それが「善い生き方なのだ」、と熟慮の上で本人が決定したならば、究極的には暴飲暴食をして不健康に生きる自由も保障されていると考えるべきです。
鳥海 食事のアナロジーで考えると、暴飲暴食をすること自体は否定されていないけれども、栄養のバランスが取れた食べ物を適切に摂取したいと望むのであれば、それができる環境が必要だということでしょう。
例えば、生鮮食品がどこにも売っておらず、健康的ではない食品しか手に入らなかったり、あるいは何を食べれば健康的で、何を食べると不健康なのかを知らずに食生活を送ったりするとどうなるのか。今情報の世界では、それと同じことが起きていると言えるのではないでしょうか。
山本 食べ物は身体をつくりますが、情報は思考や人格をつくります。私は、情報的健康は、憲法21条の知る自由だけでなく、25条の生存権とも関連していると考えています。この25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定していますね。
「文化的」とはどういうことか
鳥海 情報的健康は「健康で文化的な最低限度の生活」と関係していますよね。文化的とは何か、正確な定義はわかりませんが、多様な情報を必要に応じて手に入れることができる環境は、文化的な生活の一つに当てはまると言ってよいのではないでしょうか。
山本 日本国憲法の条文案について議論していた帝国議会で、金森徳次郎国務大臣は、「文化的な」とは「原始的という言葉の反対の意味」として説明していますが、それ以上の説明がなされていたわけではありません。人類学的には、人間と自然や動物との差分を示す概念として使われてきたようです。すると、文化的とは、反射的で生理的な反応とは異なる、熟慮による社会的コミュニケーションの様式と考えることができるかもしれません。
鳥海 健康で文化的な最低限度の生活は、システム2(熟慮を特徴とする思考モード)による生活と言うことができるかもしれませんね。
山本 文学者のマーシャル・マクルーハンは、文学メディアから視聴覚メディア、特に聴覚メディアに変わると、人間の原始的・部族的感覚が呼び起こされ、コミュニケーションが動物化すると指摘しましたが、これはアテンション・エコノミーで実際に起きているように思います。憲法の言う「文化的」の意味は再確認されるべきです。
鳥海 直感的、動物的なモードであるシステム1だけでなく、文化的な熟慮モードであるシステム2を刺激する情報にも触れましょうね、というところが、憲法25条とつながってくるのだとしたら面白いですね。
山本 憲法も、デジタル空間の構造や性質を踏まえてクリエイティブに再解釈されてよいように思います。
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